古武術とコミュニケーション

六義園

六義園にて紅葉をみに。

爆問学問「古武術でカラダ革命」を観て思った事。

古武術の武術家による対談。62歳の細身の氏が体重差二倍の柔道家をはねのけたり、非常に早い速度でさばく剣術など、古来の武術から身体本来の動きを研究している氏ならではの話が非常に面白かった。

古武術など古来から伝わる身体の動かしかたや作法といった「伝承が途絶えることへの危惧」に触れて、現在はいわば逆に石器時代で、古来の身体的な所作や作法はもっと洗練されていた。という話。体を痛めるように鍛えるのではなく、より楽に動かすために工夫することにより自然と磨かれるという逆の視点がかけているという。

例えば、介護の現場でも人を抱え起こすときに、手のひらを返して甲の部分を背中にあてて引き上げることによって、腕力に頼らない力の使い方ができる。こうしたことも、本来の体の動きや仕組みをしることにより本来持っている身体性を引き出し力を発揮する。
以前、能の先生からも、ゴルフグリップのように何かを握る所作をするとき、その状態で手のひらを一旦裏返してまた戻す事によって腕力が変わる。ということを聞いた事があった。

この番組を観て、あたりまえのように使っている体の動きや基本的な身体そのものについて無頓着なことを改めて実感。日々の生活が科学的進歩によってより楽になるにつれて、使われなくなった筋力や身体性の弱まりをジムなどであえて痛めつけて取り戻そうという矛盾。なにか本質的な見誤りがあるような気がしてならなかった。

古武術とソーシャルメディア

現在の僕らのコミュニケーションにおいても似たような事がいえるかもしれない。インターネットが普及し、様々なコミュニケーションが便利になる反面、本質的なコミュニケーションのあり方や関係性が向上したのかというと、ストレスの度合いはむしろ増している一面もある。その上、書店にいくと、そうした自己探求や人間関係論、マネジメント論など、人間関係のあり方にフォーカスされた書籍が多く出回るのも事実。

近代でこれほどまで、人間関係を探求した時代はないのかもしれない。

しかし、今の時代に必要なのは対処法的な処世術ではなくて、古武術が人間本来の身体性や精神性を探求したように、人間関係においても、社会にあわせたものではなく、本来の人間のあるべき姿や関係性、もっといえば、素直に自分が欲する人との関わり方に根ざしたところから再出発することなのだろう。

利害的な関係ではなく、お互いが信頼し共感しあうためのあり方。

とはいえ、本来の伝承が途絶える危惧もある反面、時代というのは、そうした危惧から新たな発見や進化もあるもの。

正しい姿勢や呼吸を取り戻す事で多くの事が好転するように、僕らの社会や関係のあり方も、静かにあせらず、本来の無理ない関係作りや交流によってうまくいくのではないかと思う。

その意味でも、ソーシャルメディアは失われつつあるという縁や絆に対して、僕らが取り戻すべき信頼や共感のあり方を新たな方法で問いかけ直している。

ソーシャルメディアによって数多くの人と交流することや、多くの人に影響を与えることがゴールではなく、そこにあるストレスや自己欺瞞を見つめることや、「自己顕示」ではなく「自己開示」をし、身の丈に心を開いて自己や他人と向き合う事の大切さを教えてくれているのだろう。

古武術の武道家甲野氏の軽やかでありながら、外見からは想像しえぬ秘めた力をもった所作をみていると、まだまだあちこちに力がはいって、無駄の多い自分のコミュニケーションやとらわれた自分の思考に気づく。

氏が古武術を通して人間の本質を探求しているように、ソーシャルメディアやインターネットを通じて人間のあり方を探求していくベクトルは自分自身にとっても未来へ向かうべき姿勢を凛と示唆してくれたような気がした。

基本から学ぶ事の大切さ。改めて実感。

日々精進ですね。

アレクサンダーテクニーク
この番組を見て思い出した一冊。

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