震災から8年。
いまだ住み慣れた街や家を離れ、みなし仮設住宅などを含む仮設住宅に暮らす人が5万人近くいるという。
若いうちは借りぐらしや引越しを繰り返しても、それを楽しむ余裕くらいはある。
でも、子供や家族がいたり、高齢になっていくと、なかなかそうもいかない。
僕自身、311以降は固定化した生活をさけ、どんなときにでもどんな場所でも「柔軟に生きていける暮らし」を志向し、シェアハウスやマルチハビテーションを実践しようとしてきたひとり。
でも、新しい子供が生まれ、難病を抱え入退院を繰り返す日々が突如はじまり、望むと望まざるとも究極の柔軟性を試させるような常時有事状態。
子供がちょっと風邪をこじらせただけで、翌日から入院数ヶ月。といった状態は、もう震災と同じくらい。
普通の生活が突然寸断されてしまう。
食事も3食コンビニ弁当で、寝返りすらうてない待合室にあるベンチのような簡易ベットで過ごす。病院という仮設住宅で24時間、ろくに眠れない過酷な日々が続くことになる。
付き添い入院の実態はあまり報道されないので、全国の病児を抱えるお母さんたちがどんな過酷な生活を強いられているか?は、仮設住宅の生活度同様にあまりリアルには伝わっていない気がする。
やはり一番気がかりなのが、こうした生活は物理的に疲労が蓄積してしまうことと、日常的な人間関係が分断してしまって精神的に孤立してしまうこと。
きっと在宅介護をしているご家族にも同じような状態なのだろう。
とはいえ、これだけ不確実性の高い時代、安定した社会や生活を望むのも幻想だとも思う。
根性論では語れないけど、むしろ、どんなことが起きても、前向きに受け止めながら、その変化に肉体的にも精神的にも疲労させない耐性を作る必要もある気がしている。
旅人のように、その環境になるべく早く適合して、そこにあるもので、自分なりに快適性を保つようなサバイバビリティ。
生き残るためのバイタリティ。
以前読んだこの本に出てくる四人のように、希望を失わず生きていく力。
とはいえ、個人の努力だけでなく、こうした有事状態の時代に、社会の仕組みとして、孤立して疲弊していく人たちを増やさないようにしていくための、取り組みも同時に考えていきたい。
8年前の出来事は過去のことでなく、これから起きる未来のこと。誰にもありうる出来事への教訓なのだとも思う。
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