僕は地方や自然に憧れる生粋の都市生活者で、人生のほとんどをこの都市で過ごして来た。
なのに、この見慣れた風景から少し離れて戻ってくると、よくもこんなすごいところで暮らしていたなぁと我ながら驚いてしまう。
交差点を眺めていると、急激に思考停止感が襲ってくる。
さっと頭に思い浮かぶ目的地は、新しい胸躍る場所ではなく、よく行くドトールコーヒーやなじみの店。
いや。そんなことはない。久々の渋谷だ。ここにきてドトールはないだろう。
そう思いながら、呆然と交差点を眺めていても埒あかないので、とりあえず、心の向くままに歩きはじめた。
決定回避の法則
人は、選択肢が多くなるほどに、決定を回避してしまう。つまり選べなくなる。
僕が今直面しているのは、まさにこれ。都市の圧倒的な情報量の前に思考停止してしまっている。
生活している時は、駅前にきて、「さぁ、新しい出会いを求めよう」なんて気負いはなく、目的地に行って帰るだけ。
地方都市に出向く場合は選択肢が少ないので、期待も少ない分、迷いは少ない。
だけど、東京は改めて圧倒的だ。
Google Mapや食べログなどを検索することすら、脳が拒否している。
結局、たどり着いたのは言うまでもなく、いつものドトールコーヒー。
まずは、そこでクールダウンして戦略を立て直そう。と脳に言い訳をして、外部の情報を遮断しながら、そそくさと席に着く。
「危ない。情報にやられるところだった。」
地方に生活拠点を置いてしばらく暮らしていると、単調であることが、必ずしも思考停止感を生むわけではないことに気づく。
最近不思議なことに、新しいカフェを発掘したり、昔は好きだった、車やガジェットに心を踊ることもなく、自分の好奇心の衰えなのか、そんな心境の変化に老化を感じて焦ってしまう。
でもそれは、これまで価値が高いと思っていたものがそうでないことに気づくきっかけでもあったようにおもう。
価値とは希少性
改めて、心躍る価値とは何か?好奇心を満たしてくれる未知なる出会いとは何か?
東京でしか手に入らないもの。いや、東京に限らず、今の時代に人が求めているものは?
究極に考えてしまうと、命かもしれないけど、命ですら有限で消費するものや希少と考えてしまうこと、それを所有物に思ってしまうところに間違いがある。
命には価値はあるけど、ない。ないけど確実にある。
もっと、簡単に考えてみる。
僕は東京で何を求めているのだろう? Secondlifeの仮想空間に入って、現実空間について問い直してみた。
仮想空間も現実空間も情報空間だから臨場感があれば、それはどちらも同じもの。
「うーん。現実の田舎と比べ物にならないほど、過疎化した仮想空間はめっちゃ寂しい」
チクチクチク・・ポーン
そうか、求めていたものは、人や縁なのか。
人との出会いには、無限の可能性を感じる。
むしろ、すべてはそこにある。
出会いは最適化できるか?
もともと、東京よりも自然を感じる田舎に住みたい欲求が高いんだけど、やはり人との縁は圧倒的に東京は多い。
そして、多様だ。
街をあるいていると、危険を感じるほど、自分の想定を越境した人に出会う。
今、外国人だらけのゲストハウスのカフェでこのエントリーを書いているけど、東京は本当に世界中から世界がやってくる。
東京でやることは一つ。この多様な人間との出会いを最適化してみること。
ものを買ったり、考え事したり、快適なカフェなら、地方で美味しい空気を吸いながら、水を飲むだけで満たされる。
ただ、人に出会うには、やはり東京はまだまだ面白い。
そこで、実験も兼ねて4月からイベントを始めようと思う。会場は最高の場所を提供いただけたので、あとは、どんな風に見立てをするか。
一旦東京を離れて、チクチクチクポーンと考えてみたい。