自分に問いかける

素直に「今」を生きること。

子供のころに簡単に出来たことが、大人になると出来なくなってしまうのはなぜだろうか?
今よりも、過去や未来。自分の命や老い。未来への不安や過去のプライド、後悔。頭で考え、結果を気にして、物事を自分の思う通りにしようとすること。そうした様々なことが、自分から新鮮な「今」を奪い去ってしまう。そして、いつのまにか考えに支配されて素直な感情を抑圧してしまう。
それが「大人になることなのかもしれない」と、自分を納得させて生きてしまう。

ひとつしかない絶対的な人「生」ではなく、相対的な価値観の中で世間「体」を気にして生きている。

例えば、会社を辞めるべきとは思わない。でも、会社をやめられない人の多くは、経済的理由だけでなく、自分の居場所を失う怖さを無意識に感じて取っているのではないか?

人とだけでなく、なにかに本質的に「つながって」いることを感じられない世の中。

シェアハウスに住み始めて一年半。改めて、利害関係を超えた人とのつながりの素晴らしさを味わった。もちろん、その難しさも常に感じている。
60人もの多様な価値観の中で生活することは、驚きや困惑の連続だ。それでもやっとこの歳にして利害関係ではなく掛け値のない「人とのつながり」の素晴らしさを味わうなんて、遅すぎるくらいの体験かもしれない。
でも、それをしばらくどこかへ置いてきてしまったのが、自分を含めて今の日本人なんじゃないか。

受験競争の中で、本当のつながりや、利害を超えた助け合う関係を築けないまま、社会人になり、輪をかけて利害関係の世界に身を削っていく。

反面、つながっていることへの過度の欲求が余計な孤独感を増幅させて悪循環を生み出してしまう。これは、ソーシャルメディアの負の側面にもなっている。

今一度、本当の意味での「つながる」ことの意味を考えてみる。「つながる」という感覚。いや、すでにつながっていることに気づくこと。

植物が太陽のエネルギーで生かされ、酸素を生み出して、世界が循環しているように、その連鎖の中に生かされていること。

もし、植物が孤独を感じて、集団自殺をしたら、僕らはあっという間に生きて行けなくなるだろう。

すべての命がひとつであることを知れば、目先の承認欲求に心を奪われずに済む。

どこかの宗教家のような言葉だけど、それが真実。

でも、そんな風にすべてを納得できないのも人。

特に「世間」という原始共同体意識をDNAに刻まれた日本人は、集団的承認の中で、人に迷惑をかけずに認められて生きることをよしとしてしまう。

そこからはじき出されたら、行き場を失ってしまうのが日本人。会社や地域といった集団がなければ、自分のアイデンティティさえ崩れてしまう。

一足飛びに権威といった、一般的社会的承認があれば、すべてうまくいくと思って、出世や社会的承認への欲求に急いでしまう。

その野心がなければ、自己中心的な自己承認で理解者は誰もいらないとうそぶいてしまう。

そして、本来の拠り所であった家族も、戦後の高度成長期の中で、経済合理化の中に分断され、身近な人との親和的承認に飢えたまま何かを欠落させてしまう。

何がいけないわけではない。

なぜなら、自分自身も、ここに書いた通りの承認欲求に飢えて生きているからだ。人の目を気にして、他者から嫌われないように生きて来てしまっている。

どこかで、余計なことを言わなければうまくいくと、自分の感情を押さえて生きている。

でも、だからこそ、いまこうやって感情を整理して自分と向き合う時期にきているのだと思う。自分自身を生きるために。これが機であること。

 

一人一人がこんなことをしなくても「今」をそして「自分」を存分に生きている実感があれば、人との表面的なつながりによる孤独感なんて感ぜずにもっとエネルギッシュに生きて行ける。

承認欲求がない人間なんていない。人に認められたり、喜ばれたりすることは、人間のエネルギーの源泉。

ただ、そのために、自分の欲する自由な感情や気持ちを抑圧していたとしたら、それは何かがまだ間違っている。

安易に自分を肯定はできなくても、他者との関係がうまくいかなくなったとしても、誰も認めてくれない孤独感があったとしても、そんな思いを抱えているのは自分一人じゃないこと。

みんな同じことを悩み、生きていることを知れば、少しは落ち着いてくる。僕たちはすでに「つながって」いるのだから。

この文章を偶然読んだならば、それも「つながって」いることの証し。それだけで、何かが変わってくる。そして僕もその縁によって何かが変化する。

人が脳内で何を考えているか? をさぐるために、人は多くの時間とエネルギーを無駄に使ってしまっている。

でも、こうやって素直な気持ちで自分に問いかけてその言葉や感情と向き合い、ソーシャルに投げることで、これまで得られなかった違う次元の相互理解が生まれるのではないか?

ソーシャルメディアは、より身の丈の自分を捜すためにある場所。負があるならば正もある。

ソーシャルメディアが自己顕示ではなく、自己開示のメディアであること。

承認される欲求や孤独と向き合い、そして素直に表現できる自由を選択すること。それがこのメディアの懐の深さであり、僕たちが自分自身と向き合うために用意された一つの役割。

一度立ち止まって、本当に自分が素直に思う感情や無意識に心を抑圧しているものがないか、静かな場所で考えてみる。

何も余計なことを考えずに、素直な感情に向き合うことで「今」はやってくる。それを感じる豊かさを取り戻すために。

Shareこの記事をシェアしよう!

モバイルバージョンを終了