昨日はそれぞれ何かを感じながら、思い思いの過ごし方をしていたと思います。
すばらしい式典やイベントもお誘いしていただいのですが、3月11日という日にあちこち慌ただしく過ごすのではなく、また、何をして過ごすか? ではなく、誰と過ごすかが大切な気がして、そんなことをぼんやり考えていました。
それは、「特定の誰か」と過ごすというイメージではなく、「どんな気持ちの人たち」と過ごしたいか?
自分の素直な気持ちに向き合って、この状況を共に過ごしたい人を知る事で、自分のあり方を知りたかったのだと思います。
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昨年の3月11日、物事の有限と自分たちのエゴですべてをコントロール出来ていたかのような欺瞞と直面して、正直気持ちが萎縮していました。
でも、同時にそれは、残された時間にどんな人と出逢い、過ごしていきたいか? を明確に問い直してくれたのだと思います。
ただ仲の良い価値感の会う人とだけ過ごしたい。というのでもなく、議論をぶつけ合いたいというのでもありません。
今日、一緒に過ごした人たちと時間と空間を共にして、それが何だったのかはっきりわかった気がします。
日本の問題
知人の追悼式典を拝見したあと、大学生らが主宰するお芝居を観にいきました。
昨年も観に行った「日本の問題」をテーマにした演劇の大学生版です。
今回はどんな演目かも調べず、あえて事前に作品や評判のことを意識せず会場に向かいました。
それは、きっと「演劇」を観に行こうと思ったのではなく、3月11日という日に演劇人や一人の人として、大学生がどんな気持ちでこの舞台に立つのか? その「覚悟」を観に行ったのだと思います。
その「覚悟」に触れる事で自分がなにを感じるか? そして一年前に問い直したことを確かめてみたかったのかもしれません。
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思えば、とても難しいお題であり、ましてこの日にそれを行うには、葛藤がたくさんあったと思います。
演じる人も台本を書く人も、一人の人として向き合わざる得ないテーマ。避けることもできたはず。
多くの批判や批評もすべて、織り込んで挑まなくてはならない。そんな難しいことに、今の大学生はどこまで挑戦できるのだろうか?
最初は演劇人としての大きな山に登りたいと思う気持ちに腕がなったと思います。
でも、千秋楽の3月11日を迎えて、彼らの中でそれが重くのしかかったとしたら、その重圧の中に彼らはどうやって向き合うのか?
惰性でうまくその重さを回避することもできるだろうし、この日だけは重くのしかかりすぎてうまく舞台にたてないかもしれない。
どれも悪いことではなくて、同じ時間と空間を共有し、多くの人の目にさらされている現実の中で、最後まで自分の腹に決めたことをやりとげる覚悟があるか?
今日という日は「演劇」ではなく、そのむき出しの「覚悟」で、この場所を選んだ自分を揺さぶって欲しいと思って向かいました。
「伝えるちから」
演劇に詳しくない僕が受け取れるものは、表現や演出のディテールではなくて、腹に落ちて座り続ける覚悟の力とそこから発するなにか。
その意味では、期待を超えて多くのすばらしい胆力に触れられたと思います。
葛藤と向き合いながらも、舞台に立つ勇気に出会えたこと。そして、そう腹を決めることで成長し、その決意が多くの人の心を動かす事。
批評ではなく行動すること。知るのではなく「やってみる」ことの大切さ。説得するのではなく、表現しきることで、相手の心を震え立たせること。
それは、演劇というメディアだけの可能性ではなく、ソーシャルメディアを扱う自分自身も、そして地域や社会全体に対しても必要なこと。
この3月11日をあらたに、自戒も込めて、改めて凛とした気持ちで、このことを再確認しこの日を迎える事ができた気がします。
最後までテーマと向きあいながらやりきったすべての人に、勇気をもらい、この劇場に足を運ぶ価値ある時間を過ごせました。
年齢に問わず。覚悟をもって生きている人と出会うことは、自分を試し、伸ばすよい機会。これに出会いたかったのだと思います。
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表現を通じて成長を感じる大学生の姿を見て、表現やクリエイティブで社会を変えようとするチャレンジや場づくりに、まだまだ可能性を感じます。
もっと多くの学生が演劇やメディアに触れて自分の表現として「日本の問題」や社会の課題に向き合えば、すばらしい学びと社会の成長になる気がしました。
社会人もしかり。そうした創造や表現発信に向き合うメディア教育がもっと必要です。
昨日いただいた、たくさんのヒントを胸に、決意新たに、自分にできることをひとつづつ、今日から一日一日を踏み出していきたいと思います。