1990年代後半から続けている日記サイトがあって、そのサイトは自撮りとその時々の素直な感情が語られているシンプルなものだった。
まだブログも登場していない、ましてや普通に日記を公開すること自体が、まだまだ一般的でもない時代。
そして顔出しなんて文化が流行るもっと前。
そのサイトを見たとき、僕は軽い衝撃を覚えた。
今でもそうだけど、自分の胸の内を赤裸々に語ることはとても難しい。
14年もこのブログを続けていながら、それが未だにテーマであったりする。
自分の壁を壊そうと、素直な感情を表現しようと努力してはいるけど、羞恥心や虚栄心が邪魔をする。
誰かに聞いてほしい。でも誰にでも聞いて欲しくない。
そんな矛盾を抱えたまま、その感情の行き着く先を探すために続けているのかもしれない。
うまく表現できない理由はわかっている。
素直に表現できないのは、自分自身をありのままに受け入れられていないから。
逆にいえば、ありのままの自分を受け入れるるために、ブログや日記を続ける理由がある。
久々に古い日記を読み返してみる。
自画自賛はできないけど、その時々の年下の自分を優しい眼差しで見ている自分がいる。
そしてそれが、尊いものにも思えたりする。
- 見栄をはっている自分。
- 本当の辛さを伝えられず、別の感情でごまかしている自分。
- 素直に嬉しくて、自慢したい衝動をそのまま出している自分。
- 思わず閃いたアイデアを忘れないように残している自分。
- きっと誰かのためになるだろう。と使命感に燃えている自分。
- かっこいいこと言おうとしすぎて、カッコ悪くなっている自分。
消したいエントリーや実際に消してしまったもの。書き換えたものもある。
それも含めて、ブログは「ありのままに受け入れる」ことを時折気づかせてくれる。
冒頭に書いた日記。
はじめは、それが自己顕示なのか、アートなのかわからなかった。
でも、今ならばよくわかる。
一つ一つの日記には何の深い意味も意図もない。
でも、それが綿々と続いたとき、人格や存在を帯びはじめ、そしてそれが自分であることに気づく日がくる。
自分に自信をなくしたとき、過去の軌跡が、ただそこに存在することの奇跡を教えてくれる。
続けていると、誰からも認められなくても、この自分が自分を大切にしたくなる瞬間に出会える。
そしてこれからも、様々な苦悩とともに伴走しつづけてくれるだろう、もうひとりの自分をチラ見して、また前に向かいたくなる。そんな気分にさせてくれる。
ブログや日記がこんな風に支えてくれるなんて気づかなかった。
書き終えて、ふとフェイスブックで見つけた記事。日記を書く意味について、とても共感。