「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」 (PHP新書)

昨年末、子供の風邪が悪化して緊急入院から3週間弱のICUへ。

いま、やっと小児病棟に移って子供の脇で書いてます。

まだまだ入院生活は長期間になりそうです。

子供のチカラを信頼したいと思いつつも、身体中にたくさんの管が繋がれた状態でベットに横たわっている姿をみると、「信頼」が一気に「心配」に変わり、落ち着かない日々が続きます。

そんなときに手にとったのがこの本。

どうせ死ぬのになぜ生きるのか (PHP新書)

たしかに、「どうせ死ぬのに」ぼくらは

「なぜ生きるのでしょうか?」

こんな問いを持ってしまうと、多くの人は「不安」にしかならないと思います。

この本のテーマでもある「仏教」では、その「不安」も人間が克服すべき煩悩であると説かれています。

その「不安」の奥には「怒り」があって、仏教ではそれを瞋(しん)と呼ぶそうです。

不安の原因は怒り?

仏教における「怒り」というのは(中略)「瞋 (しん)」と呼びます 。これに欲深さを表す 「貪 (とん)」と 、無智であることを表す 「痴 (ち)」を合わせた三つ 、貪 ・瞋 ・痴の 「三毒 」こそが 、人間が克服すべき煩悩であるとされています 。

どうせ死ぬのになぜ生きるのか (PHP新書)

不安というのは、<自分が勝手に予測してつくりあげた「悪い未来」に対する《怒り》>と説明しています。わかりやすいですね。

「どうせ死ぬのに」と、悪いイメージで未来を描いてしまうと、「なんで生きる(必要がある)のか?」と怒りと不安を覚えます。

仏教では「無常」つまり、物事は常に変化するので、ひとつの考えに固執しないこと。未来への勝手な予測も含めて、怒り=「瞋」を手放すことが大事と考えます。

とはいえ、病院でも、子供に投薬されているものや、その処置の仕方一つ一つが疑心暗鬼になり、「そのせいで、病状がより悪化するのではないか?」という勝手に描いた「悪い未来」に怒りを覚え、それが「不安」になります。

本で読んでいる時は、客観視できますが、病院にいる間、僕自身はこの怒りや不安を持ってしまいますし、いまでもそれがなくなりません。

ただ、こうして不安の仕組みを仏教的に解釈してくれたおかげで、ふと「不安」がよぎる瞬間に「これは瞋だ」と一呼吸おけるようになったと思います。

不安を取り除く「行」や「瞑想」

そして、この不安をどのように取り除くか?ということですが、この本では仏教における「行」や「瞑想」を推奨しています。

行や瞑想というと小難しいイメージがありますが、日常的に小さくできることが紹介されていました。例えば

日常的にできる「行」

  1. 眼鏡を拭く
  2. 朝、水でシャワーを浴びる
  3. 掃除をする
  4. 近所の神社に散歩する
  5. 大きな木に抱きつく

などです。

「瞑想」も座禅を組むのではなく呼吸を観察することもひとつの瞑想方法らしいです。

日常的にできる「瞑想」

など。

行や瞑想では「心がスカッと晴れやかになる」ことを目標とします。

断捨離が終わった後の爽快感に近いのかな。

執着しているものを手放したり、夢中になって掃除をしていると、いつのまにか自意識が溶けて、嫌なことを忘れている。という経験はありますね。

困っている人に親切をする「方便」

そしてもう一つ、この本で指摘しているのが、大乗仏教でいう「方便」(社会に実践を役立てること、無心に「困っている人に親切する」など)の重要性です。

利害関係で「親切」するのではなく、慈悲をもって人に接するのは本当い難しいこと。

そんな掛け値のない「親切心」も、やはり、常日頃の行を通じて得た「明るい心」や穏やかな心があってできること。

「行」と「方便」は常につながっています。

結局のところ「なぜ生きるのか?」を明確に答えた部分はありませんでしたが、それは理屈(大乗仏教でいう「法」)として頭で理解するのではなく、「行」や実践を通じて無心になって自我や自意識を溶かした先に体感的に見えてくるもの。のような気がしました。

子供の病気を頭でいくら考えても、医者じゃない限り、ここでは何もできません。

でも、日々「三毒」に侵されず、怒りで過去や未来にとらわれそうになったら、深呼吸という瞑想を行なったり、無心に身の回りを掃除をしたりして、できる限り「明るい心」を灯すように日々淡々と過ごすこと。

これができるようになると、執着や不安は減り生きる意味や活力が増してくるのかもしれません。

あとは実践あるのみです。

できるところからはじめてみたいと思います。

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