先日の日曜討論「子ども・若者の声 社会や政治にどう届ける?」で、野田聖子さんたちと、さまざまな課題提案していたなか、しっかりした受け答えで、子供問題の確信をついていた、安田さん。
その受け答えが素晴らしく、この人、誰だろう?と思って検索して、早速読んでみた書籍。
「暗闇でも走る」
素晴らしい内容でした。
番組で見た時は全く感じなかった、穏やかな表情からは想像できないほどの壮絶な幼少期。
家族の境遇や、発達障害、うつなど。さまざまな困難にもがきながらも、なんとか希望を見出そうと、身の丈にぶつかる姿には心打たれました。
「何度でもやりなおせる社会をつくる」
不登校や中退者の塾を経営しながら、心の傷を負った人たちのサポートを続ける。
こうやって書くと、偽善的にも思えるけど、自分の収入やスタッフへ払う賃金ですらままならない状態の中、授業料未払いの生徒に
「このまま支払いがないと、なんらかの手段をとることになります」
と厳しいメールを送っては、またそうした自分に葛藤したり。
うつや経済的な不安定だった幼少期のトラウマを抱えながらも、わからないながらも、見よう見まねで不器用にも起業していく様は、本当に等身大。
微笑ましくも、学ぶこともたくさんあり、ワクワクしながら一気読めました。
他力本願の姿
安田さんのストーリーを読んで、改めて理解したことあります。
「他力本願」のありようです。
この言葉は仏教用語ですが、自分にはどうしようもないことだから、全部天に任せて、ゴロゴロして待っていれば良い。的に解釈されがちです。
実はそうではなく、自分にできることを一生懸命した先に必ず出会うだろう「無力感」や「非力さ」こそが、人間の尊さであって、そこに救いがあるということ。
彼が自分の宿命から何度も抜け出そうとして、周りを呪うことなく、紆余曲折しながら、自ら切り開こうとしてきた姿。
そして、多くの人に何ができるだろうかと、ときに無力さ不甲斐なさに直面しながらも、諦めずに挑んでいること。
うまくやることを目指すのではなく、その剥き出しの思いこそが、すでに光であり、本人も周りをも救っているのだと思います。
それが他力本願の姿なのではないか?と思いました。
彼を仏だとか、一生懸命だから仏に救われたとか言いたいのではなく、むしろ逆で、自分の弱さや無力さに向き合いながらも、それでも人に寄り添いたいという思いにこそ、「希望」が宿るのだと。
未来を紡ぐ物語の力
文中で彼が心の支えにしているというマッキンタイアという政治哲学者の言葉
「『私は何を行うべきか』との問いに答えられるのは、『どんな(諸)物語の中で自分の役を見つけるのか』という先立つ問いと答えを出せる場合だけである」
アラスデア・マッキンタイア「美徳なき時代」より
見失いそうになった時、なかなか自分の状況を俯瞰できずに苦しむけど、人や本との出会いで救われることってあります。
彼もまた、もがきながらも、藁をも掴む思いで、出会った人や書籍に救われた人なんだと思います。
苦しい過去や現在の境遇も、それを物語として捉え、受け入れることができれば、自分の生かし方や未来が見えてくる。
この言葉を知って、すごく納得したというか、そうした経験を超えて出会った、彼の気持ち込みで、とても伝わる引用でした。
この本、不登校支援とかに興味なくても、ぜひ読んでほしいです。
僕もめっちゃ元気もらいました。