フェイスブック河やツイッター川の一級河川をぼやきながら椀子に乗って流れてくる一寸法師の民。
彼らの言葉に耳を傾けながら、その周辺を灯籠流しのように流れてゆく写真やリンクをキャッチしてはリリースを繰り返す日々。みなさんはどんな日常を過ごしていますか?
さて、今日の収穫は三つ。(と言って、書いたのは2018年2月のことで、半年このエントリー寝かされてました)
僕らがミスをチル理由 | ニッポンのおじさん | 鈴木涼美 | cakes(ケイクス)
第10回はMr.Childrenの歌詞に熱くなる、おじさんの男性心理がテーマ。
桜井和寿さんの紡ぐ言葉に自分を重ねてしまう男性のナルシシズムを、冷ややかな女性の視点で考察します。
ついにミスチルをディスる人発見。昭和の残り香をまとった僕の青春に終止符を打つ時がきたのかと軽くめまいを覚える。
これはミスチルラバーズをディスっているばかりでなく、Jポップスラバーズ全体を敵にまわすようなディスり。
その中でも最大公約数的な平成初期の青春時代を焼け野原にしてしまう、ミスチル狙いはあざとい。
このやり方って、ある程度時期がくると発酵して臭くなるコンテンツを見つけては揶揄しながら面白おかしく考察してみる風なポップな手法として度々登場してくる。
でも、確かにするどい。
そしてミスチルの歌詞の中で「僕」や「君」はかなりの確率で「歩きだす」。色々と傷ついたり、わかり合えなかったり、過去を引きずったりしながら、とりあえずとどまることを知らない感じで歩きだす。歩き出しがち。そして新しい、次の扉を開きがち。一体どこへ・・・・・・。
日本の歌謡曲を狙えばいくらでも突っ込めるところ。
同じことをドリカムでも、秋元康作品でも思う。というかJPOPどころか全世界のポップスが無防備な標的となって晒されている。
にしてもだ。僕らの心にある恥部という柔らかい部分をそっと取り出して、ムギュッと雑に握りながらサビの部分でえぇーーい!とシャウトしながら遠方に投げつけてくれるJPOPにどれだけの日本国民が救われているか。
たしかに、「恥ずかしがらなくていいよ。僕も同じだから」って歌いながら、心のどこかで「さぁ!この歌詞が気に入ったらCD買ってねーー」というもう一つの顔を感じてしまう欺瞞はたしかに拭えなくもない。
でも、そんな疑念をもってごめんなさい!!と自己嫌悪を繰り返しながら宗教心を高めて行くあの高揚感。
そんな昭和に漂う甘美な感覚を、この方はプスプスと無表情に刺して、「ダサっ」と切り捨てて行ってしまった。
社会の窓(死語)が全開なことに気付かされた月夜の晩を思い出して恥ずかしくなる。
人生の目標って結局のところ何なの?について、アグレッシブなヒントが詰まっている記事。/自分の生きる理由と信念を悟った夜 – 未来日記 https://t.co/1yCdO3m5WQ
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) February 25, 2018
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/967899779605909511
そんな、内蔵のような感情を引っ張り出されて晒された感覚に、軽い脳しんとうを起こしていると、ツイッターから興味深いリンクが流れてきた。
先ほどの辻斬りのような手練れのエッセイとは違い、赤裸々なまでに現在進行形な身の丈の言葉。
別の角度から殴られた気分だ。
だから、こんな主人公なんて有りなのかよと、冷や汗をかきながら、読了した後にYahoo!で「風と共に去りぬ 感想」「風と共に去りぬ スカーレット 性格」と、ぐぐりまくった。
すると、彼女は世代を経て、世界中にたくさんのファンを抱え、今でも多くの人を魅了し続けていることを知ったのである。自己中な肉食系ビッチなのに・・・!
自分に正直に生きようとしている彼女に「お前の人生って、ぜんぶ付和雷同だよな」と先輩の指摘で始まるブログ。
思わず膝を打ってしまった。
先程のJPOPdisりエッセイの後、じゃあ今時代の表現ってなんなんだろう。って考えていた矢先に、この口ずさむように川上からから近づいてきて、目の前で突然「ばかやろー」と叫び。そのあと「愛しているー」みたいな。少し照れ臭さい気になりつつも、どこか憧れてしまう不思議な感覚。
抗いながらも、傷だらけになりながらも、自分に素直に生きようとしている荒削りな文章にひきこまれるのだと思う。
なんだかここにヒントがあるような気がした。
こっちだよなぁ。なんとなく方向性が見えたところで、さて。と。
お尻についた青臭い河川敷の芝をパンパンとはたきながら、傍に寝ている子供を抱っこして帰ろうかと思った矢先、またすごいものが流れてきた。
絵本作家のぶみ氏の炎上問題と、近代的創作の方法論的危機について。|橘川幸夫|note
すごく腹落ちした。
「インターネット的なP2Pの直接参加型社会と、旧来型と間接代理人社会の構造の衝突がはじまっているのではないか。」
長年自分の中でこれが葛藤している。
「代弁」することが大切なマスメディア。… https://t.co/OREhuseVPQ
— HIROSHI SASAKI (@hirosh) February 26, 2018
https://twitter.com/hirosh/status/968072367690997760
あ、そうか。この違和感というか、整理のつかなさはこれだったのか。。と。もう一度子供を抱っこしたまま芝生に腰を下ろす。
都はるみの名曲「北の宿」からを引きながら
セーターを渡せぬ相手の事を思いながら寒さこらえる女の気持ちを、見事に描ききった名作である。しかし。これは、虚構の世界で、男が勝手にイメージした耐える女像であるとも言える。こうした、自分の気持ちではなく、想像した他者の悲しみや痛みを想像して表現することに、違和感を感じる時代になってきているのではないか。
タレントのCMやロックスターの恋愛歌にある、「代弁者」達のどこか形骸化してしまった欺瞞。たしかに、そうかもしれない。
そう考えたら誰かの痛みではなく、自分の痛みをさらけ出すような表現が今っぽい。
なにかを表現するときに、自分の痛みを晒さず、つい最大公約数的な言葉を使ってしまう癖は僕にも多々ある。
だから、小手先の技術ではなく、不器用でも素直な文章には憧れてしまう。
極みのある文章ならともかく、上手くらいなら下手なほうがいい。
インターネット的なP2Pの直接参加型社会と、旧来型と間接代理人社会の構造の衝突がはじまっているのではないか。
橘川さんはソーシャルネットワークが始まる、はるか昔からこの時代を見据え実践してきた方。本当にその先見の明にいつも驚かされる。
ぜひリンク先にある、彼がポンプ創刊時(1979年)の言葉を読んでみてほしい。
そして、この表現の衝突だけでなく、これからの指針も見せてくれている。
(前文略)他者の心を想像する力は、今後の人類にとっても重要な方法論だと思う。
問題は、自分の想像力がある種の権力を持って、他人の行動を支持したり、評価したりすることだろう。一人ひとりが、他者の気持ちをおもんばかって、その上で、威圧的にならないというのが、人類の成熟というものではないか。
他者の心を想像し代弁することが悪いことではなく、そうした想像力が他人の行動を良くも悪くも影響与えてしまうこと。それを理解した上で「威圧的にならない」こと。
すごく難しい宿題をもらった気分。
僕自身メディアのもつ権威性みたいなものに嫌悪しながらも、そっち側の世界にどっぷりいた人間なので、両面がよくわかる。
自分の言葉なんて一切挟めないマスメディアにいると、その一言の影響力が強いだけに、一人でもその言葉や表現で傷つく人が出ないように気をつけてきたし、そう訓練されてきた気がする。
その分、当たり障りのない表現が身についてしまった。
多くの人の代弁者であろうとすること。その役割が大きいほど重責がある。でも、どこかで自由に振舞いながら炎上をものともしない、ソーシャルな人たちを目の当たりにすると、憧れに近い感情が沸き起こる。
そこで「威圧的にならない」というのは素敵な宿題だ。
威圧的にならないことと、当たり障りがないことは違う。
中途半端にやさしき代弁者であろうとしても、今の時代は伝わらない。であれば、本音押し通して注目集めながら炎上をバネにできることがいいかというと、それもまだなにか腑に落ちなかった。
どこかで威圧的なのだ。違った意味でマウンティングしながら権威的でありたいという未成熟なスキルゆえの欺瞞が見え隠れしてしまう。
とはいえ、これだけは間違えていないと思えることがある。
「最大公約数、みんなに好かれようと振る舞う時代の終焉」なんだと思う。
そこにポイントがあると思う。
その表現の先にきっとなにかあるんだろう。
カーリング女子で「もぐもぐタイム」とか取り上げるメディアと視聴者が気持ち悪い
Photo by MIKI Yoshihito. (#mikiyoshihito)