だから本来、高等教育のキャンパスには「誰にも邪魔されず、ぼおっと無為な時間を過ごすことができるための空間」が人数分用意されていなければならない。
ぼくはそう思っています。
たぶん、ケンブリッジとかオックスフォードとかハーヴァードとかそういう大学はそういうふうになっているはずです(パリ大学は違います。フランスの大学には建物だけしかありません。でもその代わりに、校舎を一歩出ると、街には「ぼおっと」用のスペースがほとんど無限にあります。だから、パリは「知性の都」と呼ばれるゆえんなんです)。
教育とは何か、学問とは何かということがわかっていれば、必ずそうなるはずなんです。
でも、残念ながら、そのような空間的「無駄」が大学教育には死活的に重要だと考えている大学人は現代日本にはほとんどいません。
内田樹 入試部長のひとり言 から2009年6月17日に引用
たまたま知人がメールで転送してくれた一文。きっと僕が忙しくしていることを察してくれたんだと思う。内田樹先生のことも、この知人から教わり、何冊か本も読ませてもらったけど、この先生の話はいつも響く。(いつもいいタイミングでいいメールを送ってくれる知人にも感謝!)
文書読みながら無為な時間や空間が大切だなぁと思っていた矢先、持病の激しい腰痛が。こんなに痛いのも数年ぶり。
たしかに、いろいろ気を張って動きすぎたかもしれない。
痛み止めの飲み薬が効かなくなって、とうとう地元の病院に。かなりまたされたあげく、痛み止めの座薬だしておくから、大きな病院に。と。
大きな病院で散々嫌な思いしているから、ホームドクターのような身近な先生をと思っていたんだけど、なかなかみつからない。痛々しい顔をして病院にいくと、露骨に「いや、うちじゃ無理だから」的な言われ方をして、ちょっと悲しくなる。まぁ、先生の立場からしてみたらそうだろうなぁ。
横になっていたら少しだけ楽になってきたので映画を観る。今日はパソコンつけまいと思いながらも映画が良かったので、忘れないうちにこれだけ書いて寝ることに。
一つめは「おくりびと」
後半から何度も泣きまくり。納棺士という仕事も初めてしったけど、そうした仕事への誤解を説明ではなく、寡黙にまっすぐ向き合うことで人の心を動かしていく。そんな主人公の真摯な姿勢に心を打たれた。
人に理解してもらうとすることばかりに気持ちを向けるのではなく、自分の信じるモノをもみつけそして、そこに向き合うことで言葉を超えた所作が生まれてくる。そうした寡黙さから伝わるものを感じた。
二つめは「めがね」
時の流れを感じないような生活をしていると、何もない時間が無意味に感じてしまう。言葉も同じで、「意味」で無理に埋めようとせず、流れる間からお互いが感じ取りあうことで、実は穏やかな気持ちでいられるようになる。
「かもめ食堂」の時も同じだったけど、はじめのうちこの映画のペースになじめなかった自分が、2時間かけてゆっくり肩の力が抜けていく。映画というよりはちょっとしたバケーション(何もしない時間)を追体験しているような、そんな不思議な感覚の映画でした。
ゆっくり休みます。