読んでいない本について堂々と語る方法

今日ご紹介するのは「読んでいない本について堂々と語る方法」です。めちゃくちゃ面白かったので、要点解説します。

そもそも「本を読んだ?」とはどういう状態か?

この本、書籍名から速読や読解に関するノウハウ本に見えるのですが、著者のピエール バイヤール氏がフランスの大学教授で精神分析医ということもあってか、とても哲学的で示唆深い内容になってます。

冒頭から「本を読むこととは?」という問いがあるのですが、確かに読んだからといって、その全てを覚えている人はいないし、きちんと内容を理解しているかは誰の心にも疑わしいわけです。

えらい感動した映画ですら、人前で感想を述べるのは難しく、数ヶ月経った映画なんて記憶に残ってないこともあります。

「本を読んだ」と言えるかどうか?

たとえ読んでいたにしても、どこかにすっきりしない感情が伴います。

積読からくる罪悪感はどこからのくるのか?

ましてや、書店にはいって一生かけても読めないくらいの書籍を目の当たりにすると、「読んでいない」ことへの軽い絶望感とコンプレックスすら抱かせたりするのも事実。

知的好奇心というポジティブな感情と裏腹に「読書」という、どこか強迫観念的なネガティブな感情。

そうした「本を読む」ということへの、モヤモヤとした感情がどこからくるのか?この「感情の整理の仕方」こそが本書の筋であり目的となっています。

そして、読み終えるとなんとも言えない爽快感すらあって、「別に全部通読しなくても、罪悪感持つ必要なんてないんだ!」と誰もが思えるはずです。

同時に、無意味なネガティブ感情が消えて、純粋な知的好奇心が残り、めっちゃ本が読みたくなるんです。

まず、そのネガティブな感情や「罪悪感」がどこからくるのか?

それがどれくらい無意味なものか?書籍を通じて著者が攻略しようとしている三つの規範を紹介します。

(1)読書義務

読書は神聖なものである。読んでいないことは許されない。という規範。

(2)通読義務

読み流したり、斜め読みはだめ!最初からきちんと読みなさい!という規範。

(3)本を語ることへの規範

人に語るためには、きちんと読んでいることが前提である。という規範。

読むことの意味を問い直す

本を買ったけど積読している人はみんな、これらの義務や規範を違反しているような罪悪感が伴っているわけです。

印刷技術が発達するまえの時代は、聖書も含めて一部の神職や特権階級の人しか本を読むことが許されず、それを読んでいる人から教えを乞うことで、お布施をしたり、敬虔な信者になるような構造があったとどこかの本で読んだことがあるんだけど、そうした時代の名残か、読書している人が権威をもつような風潮ががいまでもある気がします。

大学の先生がテレビで取材受けるときに背景が本棚であるだけで、ちょっとした威厳を感じたするのも同じですね。

読む行為はつねに読まない行為を、裏に隠しているのだ。その本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっている。読書を始めた瞬間から、抗いがたい忘却のプロセスが起動するのである。読んでいない本について語ることが正真正銘の創造活動であり、他の諸芸術の場合と同じレベルの対応が要求されるということは明らかである。教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果たさないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思わないのである。

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読むことは知見や世界を広げる大切なことですが、本を読んでいる時間に創造的行為や機会を奪われていう視点。

通読ではなく「全体の見晴らし」を鍛える

大切なことを無心に書籍「読む」ではなく、俯瞰した視点で書籍(の立ち位置)を「読む」こと。

本書に図書館のあらゆる蔵書に精通している司書の寓話が出てくるのですが、その司書が350万冊あるという図書館の書籍に精通していることに驚いた陛下に対して

「どうしてわたしが全部の本を識っているのか知りたいとおっしゃるのですね、陛下? そのことなら、むろん言って差し上げることができます。つまり、一冊も読まないからなのです。」

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書物に無関心なのではなく、愛があるからこそ、あえて書物に立ち入らない。という徹底した姿勢。全体を平等に知るために俯瞰的立ち位置を貫き、全体から書物を捉える。

このことを著者は「全体の見晴らし」という言葉で表現していますが、一生かけて読み終えるはずのない書物のひとつひとつに立ち入るのではなく、全体の見晴らしをとれ。という主張。

これは一冊も読むなということではなく、有限の時間の中でその線引きが重要というメッセージも取れるわけで、特にインターネットの高度情報化社会などは、全ての網羅ではなく、必要なときにどこにその情報があるか?そのアクセスの方法や知恵が求められるのと同じ。

僕もネットやYouTubeのおかげで、いまだに勉強が好きで仕方がないというか、人生でこれほど勉強や成長を実感できたこともないほど、今のネット社会にはワクワクしています。

それって、記憶力が悪くても、忘れても何度でも検索すれば教えてくれる。学びたいときに学ぶことができる安心感からくるのだと思いますが、ある意味でも「通読や読書に対する規範」から解放された境地によって、知恵や世界が広がるような感覚とも言えるのかな。

年齢とともに読書した総量は増えても記憶力も落ちていくことを考えたら、よっぽど記憶力の高いサヴァンのような能力がない限り、読書量そのものと、教養や知恵が比例するとも言えないし、むしろ読書をほんんどしない人が無教養や無知かと言えばそうとも言えないわけです。

むしろ、これからの時代は読書義務といった規範や記憶力が正義のような網羅的な教育より、(読書も含めて)好きな世界に没頭し、その世界から俯瞰し、自ら創造し表現するような力を鍛える教育に力点をおいたほうが良いのだと思います。

(通読や)全てを網羅しないと「語れない」「語ってはいけない」ではなく、もっと積極的に中途半端でも、たとえ読んでいないなくても、自ら「語る」ことによって、世界が広げることの意義。

これからの時代の情報との向き合い方にも通じる内容と、とてもユーモラスにその世界の見晴らし方について教えてくれる、読後に爽快感の残る書籍でした。

(結局、この著者はめっちゃ本読んでいるよね。というパラドクスもあるんですが)

Photo by Road Trip with Raj on Unsplash

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