佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と認めざるをえない”展」

東京ミッドタウン・ガーデン内にある「21_21 DESIGN SIGHT」でやっている企画展、「“これも自分と認めざるをえない”展」に行ってきました。
佐藤雅彦さんでピンと来る人は是非足を運んでほしいし、そうでない人も、間違いなく新しいアート体験ができるのでおすすめです。

詳しい展示内容は展示会のウェブを観ていただくとして(とはいえ、何も前知識なく行くほうがおすすめです。また、展示内容が体験型なので、個々のインスタレーションもキャプションや解説を読まずに挑戦したほうが楽しめます。)

ソーシャルメディア時代。個人が発した言葉や情報がライブ感とスピードを増して広がっていく様を日々実感しているのですが、その背景には、個人が積極的に生活の空間、時間、至るところで発信していていること。そしてその情報と引換えに多くの交流や出会い、縁が広がっている社会とも言えます。

でも、そこで得られる情報やソーシャルグラフ、縁、情報と差し出す個人の情報との代償ははたして釣り合っているか?

「いま、六本木にいます」といった情報を公開することで、引き換えられるものとは?

それが必要とは思えないのなら、情報発信しなければいいだけの話なのですが、今のIT社会、何かを検索しただけで、検索履歴という個人情報がネット上に蓄積されていると考えれば、これも無意識な個人情報の発信とも言えます。
その履歴やクリックした回数や情報を通じて検索精度が高くなったり、私たちの利便性に還元されているのだとしたら、ネット社会への貢献とも言えますが、その代償として、個人という属性を知らぬ間に取得されて、そうした行動履歴から、カテゴリー化されていたり、定義されているのかもしれません。

しかも、もしかすると社会では自分が想像しているものと違うところに、定義されている可能性もあります。

自分を定義するのは、自分ではなくてあくまで、他人や社会であること。指紋や免許証というのは、ただの背番号のようなIDであって、そのIDを「自分が思っている自分」と定義するのは別のこと。それでは自分の属性やネットワーク社会における「自分」とはなにか?

小難しい哲学やシステムを語り合うのではなく、それを皮膚感覚として体験できる装置。それが今回の展示会だと思います。

時に疑問や不安を突きつけられ、それを恐ろしく思うこともあれば、そうした情報によって共感覚や新しい出会いや縁といった可能性を感じることもあります。

そうしたことを体験し学ぶためには、否定や拒絶ではなく、やはり世界に身をおいてみて、実践を繰り返しリスクを背負いながら考えていかないといけないのだと思います。

同時に、そうした疑問や問題をいち早く語りあって、これからのネットワーク社会が暴走しないように私たちがバランスをとりながら監視していく必要があります。

展示会も素晴らしいのですが、このタイミングに語るべき議論をアートとして表現しディレクションした佐藤さんのセンスや、個々のアーティストにも脱帽です。

観た人がいたらぜひ、お茶しに行きましょう!語り合うネタには絶品の肴です。

Shareこの記事をシェアしよう!

モバイルバージョンを終了