映画「ヘルタースケルター」とSMAP解散騒動

ストーリー:トップモデルとして芸能界の頂点に君臨し、人々の羨望(せんぼう)と嫉妬(しっと)を一身に集めるりりこ(沢尻エリカ)。だが、その人並み外れた美ぼうとスタイルは全身整形によってもたらされたものだった。そんな秘密を抱えながら弱肉強食を地でいくショウビズの世界をパワフルに渡り歩く彼女だったが、芸能界だけでなく、世間をひっくり返すような事件を引き起こし……。

引用元:映画『ヘルタースケルター』 – シネマトゥデイ

ヘルタースケルターは岡崎京子原作の「芸能界(ビジネス)」の闇をモチーフにした映画。

「モデル」や「タレント」といった「商品」を作り出し、祭り上げては叩きおとす。その過程でひとりの人間の人格が壊されていく様を描いていて、かなりシュールな作品です。

芸能界のタレントやアイドルは終身雇用でもないまさに水商売。世間にちやほやされ、権威や収入、承認欲求を満たしていく間、ニーズがなくなり消費され尽くされた瞬間におしまいのシビアな世界。

この映画と、昨日見たSMAPの釈明会見の様子を見て、その茶番とリアリティの虚実まみれた世界の不思議さに、同じ「ホラー映画」観ているようなシュールさを感じました。

虚実を楽しむメディアの世界

僕も20代終わりから30代全般までテレビカメラの内側に長くいたので、テレビの向こう側を相手に、期待どおりに振る舞う世界への葛藤は少なからずわかります。

テレビは波乗りのようなもので、一度良い波にのれたら、自分の能力よりも周りの力が作用するので、外から見れば、実力以上に楽しそうに見えたりします。いくら才能があっても、波が小さな場所を選んでしまうと、評価されないんだと思います。また、乗った以上、私的理由では簡単に降りられないのも事実。

華やかで、収入も大きく、承認欲求を満たされ、メディアという既得権益の権威的な蜜と引き換えに、その世界にい続けるには、個を滅するという不問律があること。

テレビの世界はカメラの前に立っている人が全てを作っているように見えますが、その裏にはカメラマンからプロデューサー、スポンサーなど多くの人が、取り囲んで、台本通りに進んでいます。
むしろ、テレビに映っている人は、その周りの人に作られていると言ってもいいと思います。

テレビが謎かけて、ネットで真相を推理する。代替現実ゲーム。

釈明会見も当然、そうした茶番の世界での出来事なので、その虚像の世界で、なにが真実なのか?テレビの世界に見え隠れする虚の中からネットで実を推理して楽しむようなサスペンス映画的楽しみ方。それが今のテレビを楽しむスタイルなのかもしれません。

個を滅するゲームの中で、その掟を破り何かのメッセージを投げかけようと抵抗する様。ヘルタースケルターのエンディングは、そこに生身の人間を証明する様なエキセントリックな表現で抵抗を見せますが、現実では「何かおかしい」という違和感くらいでしか表現できないのだと思います。

そのラビットホールの様な違和感の入り口から広がる芸能界というダンジョン。

観ているほうも、演じているほうも、ゲームやエンターテイメントとわかっているうちは楽しめますが、そうでなくなったとき、闇が広がるんでしょうね。

普段見慣れている、芸能界やテレビの裏側をちょっと覗くとそこにホラーがあった。そんな不思議な体験がしたい方は是非この映画観て見てください。

マトリクスの世界ですね。

Shareこの記事をシェアしよう!

モバイルバージョンを終了