ソーシャルメディアを拒絶するわけではなく、自然と必要のない状態って、裏を返せばそれほど特別なことでもないんだと思う。
僕自身、「ソーシャルメディアの楽しみ方」や「ソーシャルメディアを使うべき理由」みたいなものを探してきているし、これからも、探し続けるのだけど、「ソーシャルメディアをやらなくてもよい理由」を知ることでより理解に近づく気もした。
すごく遠回りな精神論になってしまうかもしれないけれど、書いておきたいと思う。
「縁」
- ソーシャルメディアは「縁」を、もう一度とらえ直す教科書。
- この当たり前の「縁」について考え、自分自身の「縁」や「きずな」について、深く問いかける場所。
- 縁を得るためにソーシャルメディアをやるわけでもないし、縁はそうやって得るものでもない。
- 縁を大切にする。といっても、こまめに連絡とることでもそうした技術や作法ではなく、縁をとらえる心のあり方。
- 大切なことは、僕らは「縁」という恩恵や信頼のネットワークにいるということ。
- ソーシャルメディアにおいても、そのネットワークのあり方を常に大切にしていかなくてはならない。
- 教えられたものではなく、自分自身の方法で。
「共感」
- ソーシャルメディアを急速に発展させてきたのは、僕らの「共感」を求める力。
- 日常的な社交性の中に「共感」が欠乏しているのだとしたら、それを補ったり、改めて「共感とはなにか?」を問い直すために、ソーシャルメディアがある。
- 共感することされること。でも、自分の軸がしっかりしてないとお互いに力強く響き合えない。
「軸」
- 共感されるために生きているのではなく、(誰にも知られずとも)共感される生き方を信念とすることで、見えてくる世界や縁のあり方がかわってくること。それを知ることが軸となる。
- 誰にも認められない不安という心中や、共感されない孤独を通じて、軸はその在処をより明確に教えてくれる。
- それは何事にも動じない頑丈な軸ではなく、もっとしなやかなもの。
- たくさんの人と「つながる」安心感も大切だけど、孤独を学ぶことで軸は育まれる。
「新たな時代の縁のあり方を学ぶ」
これは、先日他界した僕の友達であり、恩人である彼女の生き様を振り返ることで、僕自身が学んだ大切なこと。
僕自身も改めてソーシャルメディア
僕がこれからもソーシャルメディアをやり続けたい理由は、この3つを育んで自分なりの方法で答えを見つけていきたいから。
ソーシャルメディアをやらなくてもよい理由とは、ソーシャルメディアをやるべく理由を見つける必要がなくなるということ。
自分なりの「縁」や「共感」、「軸」を見つけることで、学ぶ場としての「あがり」になった状態。
むしろ学ぶ以前にそれらを大切に生きていれば、ソーシャルメディアはあってもなくてもよいのだと思います。
メディアとは、感覚を呼び覚ますもの。ソーシャルな感覚を呼び覚ますものがソーシャルメディア。
その意味でも、ソーシャルメディアは「縁」や「共感」や「軸」の在処について自身に問い直し学びなおす教科書なのだと改めて思います。