「笑っていいとも!」の価値は「生放送」であること。でも、残念ながら、この録画視聴時代に、そこに「居合わせる」体験の醍醐味が薄れてしまったのだと思います。
結局、最終回も「笑っていいとも!グランドフィナーレ」ではなく、裏番組の「仕事の流儀〜中東久雄<四季を感じ、命を食す>」にチャンネルを変えてしまいました。
「笑っていいとも!」も録画で見直しましたが、皮肉にも「仕事の流儀」のほうが「生放送のバラエティ」より、よっぽどドキドキしてしまう、一人の人生に出会えるという「ライブ(生)」な体験があったように思えます。
番組終了というのは、その(生放送に)求められる価値に見合わなくなって来たことを意味するだけでなく、改めて「ライブ」「今」であることの意味、メディアのあり方を私たちに広く問い直しているのかもしれません。そんなことを生放送の裏番組を見ながら考えていました。
「誇り高く、平に生きよ」その意味。
一流の料理人でありながら、高級食材ではなく野にある野草や土地の野菜を摘み続け、最高の味を最高のタイミングで仕上げることにこだわった中東さん。
家庭の料理のようなものに「お金をはらう価値があるのか?」と客に言われ、自分の信念に向き合い葛藤しながらも、足を止めることなく向き合い続けて来たある日、ひとつの境地に出会うエピソードがとても印象的でした。
中東の胸にはいつも、料理の師匠だった兄・吉次さんの言葉がある。38歳の秋、独り立ちするにあたって兄から渡された手紙には、「誇り高く平らに生きよ」という言葉がしたためられていた。当時はその意味が分からなかったが、毎朝の大原通いを続ける中で、次第に理解できるようになったという。小さな野菜の声なき声。農家の人たちの何気ない言葉。平らに生きよとは、そうした声に耳を傾け、謙虚に学びながら生きることではないか-。世界にその名がとどろく料理人になった今も、中東は兄の言葉を心に刻み、大原の自然と向き合い続けている。
一人の人間の価値を過剰に演出することなく、記録にとどめて、もっともよいタイミングで番組として紹介する。まさに中東さんの向き合う、旬の食材を知り尽くして一番美味しいときにその味を引き出すために料理する。
作り手と受け手が「出会えてよかった」と心から思える「一期一会」を表現する「料理」と「ドキュメンタリー番組」には、通じるものを感じます。
生放送バラエティの価値
もちろん、「笑っていいとも!」がこれだけの長期的、安定的に作り続けてこれたこそも、本当にすごいことだと思います。
でも、忙しいことが価値である芸能人が、過酷のスケジュールを縫って新宿アルタに到着する。この「いまそこに(有名人が)居る」価値が最後の砦でもあり、タモリさんがレギュラーで「居続け」られている、現役という「今」を感じることが、最大の価値になってしまい、それを上回るものが消費尽くされたのだと思います。
特に色々な人が「今」を表現しているソーシャルメディアの時代は「今」は希少価値ではななくなってしまい、加えて、「今」の価値は「有限」だからこそ最大で、いつまでも続くことが前提としたものはその価値がより薄れていく使命にあります。
中居君が言っていた、
ドラマもクランクアップがあって、映画もオールアップがあって、
始める時に、そこのゴールに向かって、それを糧にして進んでるんじゃないかなって思います。
でもバラエティは、終わらない事を目指して、進むジャンルなんじゃないかなと。
覚悟を持たないと、いけないジャンルなんじゃないかなと思いながら(後略)
生放送 x バラエティのもっとも難易度の高い部分を目指していて、すごい志だと思います。でも、もしかすると、この生放送とバラエティの混同が予定調和感を生み出していて、他番組の芸人楽屋ネタの生本番風同録と、差異がなくなってしまったあたり飽きられる原因になったのかもしれません。
苦みにある旬のチカラ
春の息吹を伝える食材「フキノトウ」。苦みが強いため、ゆでるときに塩や重曹などを加えることで、苦みを和らげるのが一般的な調理法だ。だが中東はあえて真水でゆで、苦みを残す。この苦みこそ、雨露や炎天下にさらされた山菜の生命力を伝える重要な要素だと考えているのだ。食材の声に耳を傾け、手をかけすぎない勇気を持つこと。それこそが、食材の「命の味」を最高に引き出す調理法だと考えている。
あえて、真水からフキノトウを茹で、灰汁を封じ込め、苦みを残すような中東さんの料理。
素朴にそこにしかないもの。語れないものに「今」がある。そう思います。
みんなが「今」を実感し、発信し共有する時代。もう番組やテレビに「今」を求める時代ではないのかもしれません。
いや、今を実感することの意味を問い直さないと、ソーシャルメディアで発信されている「今」ですら、テレビ的な予定調和感が潜んでいるかもしれない。
大切なことは、「今」を実感する本能的で静かな感性。ソーシャルメディアはそうした、内省と一緒に今と向き合う時間を作るトレーニングなのだと思います。
そのためにも、今と一期一会を感じる生活やふれ合いが重要なんでしょうね。
メディアの苦みが、本来の僕らのなにかの欲求を呼び覚ましているのかもしれない。なんて、深読みかもしれませんが、「生放送バラエティ」の幕が一つ閉じたことは、なんだか、時代の終わりを感じてしまう出来事でしたが、新たな時代のはじまりでもある気がしました。