こんな読書体験、かつて味わったことがないほどの衝撃。
このタイトルとイラストが、その不意打ちの威力を倍増させてしまっている。
一見スノッブな女子トーク本かと思いきや、ちょっとずるいほど、哲学的。こんな往復書簡は見たことがないし、後先でてこないんじゃないかな。
ガンで余命宣告を受けてしまう、九鬼周造の研究者で日本哲学を研究している宮野真生子さんと、文化人類学、医療人類学の研究者、磯野真穂さんの病と偶発性をめぐる8ラウンド。
毎回、「カン!!」とゴングのなる音が聞こえてきそうな、楽しくもありスリリングな応酬をリング脇でかぶりつくように味わえます。
喫茶店で仲良くパフェを食べている女子の後ろで、それぞれのスタンドが格闘技をしているのを眺めるような本。
後半に向けてお互いの筆勢が増してきて、読んでいる自分にすら被弾してしまう。
3身、ボロボロになりながらも意地でも読み切ろうとするので、読後感がすごい。
宮野さんはモルヒネで痛みを堪え、自分の病や死と向き合いながら、長年続けてきた九鬼周造の「偶然性の問題」を再考察します。
偶然性とはなにか?
「あること」も「ないこと」もありえた「にもかかわらず」、けれど、そうなってしまった。
急に具合が悪くなる | 宮野真生子, 磯野真穂
この「にもかかわらず」を人間がどんなふうに生きているのか、を九鬼周造は問い続け、彼女もまた自分自身に問い直します。
僕自身も子供の不治の病を知った時、卑怯ながらにも、なぜ他人の子供ではなく自分の子供だったんだ?
話したり、歩けたりする世界線もあった「にもかかわらず」どうして?と考えました。
それは、「神様からの試練」やあらかじめ決まっていた運命論的な解釈もできるけど、それではどこか枠に収まらない。
キャリア論の権威。スタンフォード大学のクラムボルツが提唱した「計画的偶発性理論」では、キャリア形成のほとんどは「偶発性」から起きる。つまり、予定通りのキャリアプランにはならない。とういうもの。
好んでセミナーなどで使う引用で、たしかに、どんなに資格を取得したり、勉強をしたからといって未来の補償はなく、未来を大きく決定づけるのは、未来に「出会うだろう」人であって「縁」に寄るものだと。
だから、無理に計画を立てて「思うよう」にするのではなく、「思うようにならない」ことを前提に、もっと目の前のことを受け入れて楽しもう。
なんて、呑気なアドバイスはしつつも、それが仕事やキャリアではなく「病」や「死」だったら同じことが言えるか?
何もごとも一切苦、諸行無常だと片付けられるか?
禅問答のような問いに対して、多くは保留にしつつも、選択を迫られたり、強烈な「にもかかわらず」に遭遇してしまった時、その現実や偶発性を受け止める過程に、自分の中の生への覚悟や衝動のような人格が立ち現れて、わからないまま、尽き動かされてしまう。
逆に言えば、それが立ち現れていなければ、自暴自棄になって、いまここにいない存在になっていたかもしれない。
それを九鬼を引用して宮野さんは言いました。
「偶然という自分ではどうしようもないものに巻き込まれながら(無力)、その偶然に応じるなかで自己とは何かを見出し、偶然を生きること(超力)であったと言えます」
急に具合が悪くなる | 宮野真生子, 磯野真穂
その(偶然に応じる)瞬間沸いてきたエネルギーがまた、誰かの心に触れて、連鎖し邂逅していく。それこそが人間しか持ち得ない社会のエネルギーなんだろうなと。
なんでも思い通りになる神様はさぞかしつまらないのだろうなと。
僕が人生で一番好きな映画「ベルリン天使の詩」も、思い返せば、そんなストーリーだったかもしれない。
リング脇で真っ白になった矢吹ジョーのように、そんなことをぼんやり考えながら本を閉じました。
もう2度3度は読むだろうなと思える本でした。kindleでハイライトつけまくって、再読する時は紙の本でペラペラとめくる指の感触に記憶を刷り込むように読みたくなる。そんな一冊。
急に具合が悪くなる
宮野 真生子 (著), 磯野 真穂 (著)