ツイッターで新しい自分に出会う

今日でツイッターはじめて7年目。

Twopchartsというサービスのmentionで知りました。

はじめてツイッターにログインしたときの率直な感想は「なんて!気持ち悪いメディアなんだ!」でした。

タイムラインに流れてくる「おはよう。」とか、「ただいま。」とか。一体誰に向かって発信しているのか意味がわからず、しばらく一体これはなにか、どう使えばいいのか考えさせられたことを覚えています。「おかえり」とか言えばいいのか?とか悩みました。

でも、この不思議な感じが、個がコミュニティを超えて、パブリックやソーシャル、ソサエティ、世間に向けて身の丈のコトバで語りかける新しい時代の到来を感じさせたものだったのかもしれません。

同時に、そんな体験をしたことがないので、多くの人が戸惑うんでしょうね。

改めてツイッターについて考えてみました。

身の丈にコミュニティの境界線を飛び越える

ここからがコミュニティ(顔見知りの人たち)でここからがソサエティ(知らない人たちの集団)。そんな境界線がインターネットの世界では曖昧なので、炎上が起きたりプライバシーさらしてしまったりとトラブルも絶えないのですが、その境界線を意識せず大きな共同体として自然体に振る舞えるトレーニングの場が「ソーシャルメディア」だと思います。

当然、難しいです。いろいろな価値観の人がいます。コミュニティですら、自由に身の丈に振る舞うのはとても難しくて、僕がいま60人で住んでいるシェアハウスだって、日々痛感しています。

コミュニティをコントロールしない

コミュニティは比較的近しい価値観をもって集まるので、居心地よいのですが、時に同調圧力や逆に不安定さが増してバラバラになってしまうこともあります。

でも、コミュニティをコントロールすることはできないですし、むしろ居心地よくするためにコミュニティをまとめるのではなく、そこでできる自分なりの貢献を小さく体験していくことが大切なのだと思います。それが結果「居心地の良さ」に帰ってきます。

ツイッターも、炎上や喧嘩を観ると嫌な気分になりますが、だからと言って、ツイッター全体のエコシステムをかえようとは思えないですし不可能です。

でも、そんなときにも、自分にできる、ちょっとした有益な情報をシェアしたり、素直な気持ちで言葉を書くことで、何かが少し変わる気がするので不思議です。

自分を受け入れる場

結局は、「みんなから受け入れられるためにある」のではなくて、「自分を受け入れるためにある」のだと思います。

自分の見方が変われば、そこは楽しく居心地いい場所ですし、そうでなければ、つらい場所。

ツイッターというただ140文字で文字を書く場なのに、そんな簡単なことが難しく思えるのは、そこに人(の目)を感じて、その見えない存在に対して常に問いかけるからだと思います。

それは、みんなに問いかけるのではなく、間違いなく自分のあり方を問いかけているのだと思います。

僕も人の目を気にしてしまうところが多々あるので、ソーシャルメディアは時に苦痛を感じます。

でも、そうした小さな体験や感情に向き合い続けたことで、ずいぶん大きな変化があったなと、この7年を振り返っても思います。

ちょっとした開き直りかもしれませんが、実名で顔だしで発言するリスクと常に向き合いながら、精錬潔癖でない自分自身が、そうまでしても、身の丈に語り続けようと努力することで、どんな変化が現れるのか? 身をもって知ってみたいと思っています。

7年前の自分に比べると、なんだか自分の変化が面白いです。急には変われませんし、いつかすべてやめるときがくるかもしれませんが、そのときの境地にも出会ってみたい気がします。
Twitter user profile of(@hirosh) by Twopcharts

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