ブレネー・ブラウン「恥について考えましょう」 | Video on TED.com

前エントリー「ブレネー・ブラウン:傷つく心の力 | Video on TED.com | soanblog創庵」の続編です。

今回はこの「vulnerability」(無防備さ)と「恥」について言及しています。

前回同様に言っていることは一貫しています。恥や無防備さを恐れず、さらけ出す勇気の大切さ。自分はこうあるべき。という杓子定規を捨てて、不完全な自分を受け入れる。オープンに透明性をもって語ることの重要性という意味でも、ソーシャルメディア時代の表現や発信原則に似ているところがあります。

バルネラビリティとは

今回のテーマでもある「vulnerability」という言葉ですが、東日本大震災のときに、様々な憶測やデマが流布するようなネット上に流通する情報の「脆弱性」という意味で、「vulnerability」という言葉を知りました。この単語を検索するとこの「脆弱性」という意味がよく出てきます。

ブレネー・ブラウン「恥について考えましょう」 | Video on TED.com.

「情報の脆弱性」も少しつかみづらいニュアンスですが、完全に精査された言葉や情報ではなく、不完全で未検証な情報だからこそ、情報の速報性が必要とされる有事においては、伝達力が早く柔軟にある意味での「強さ」をもって広がった。という読み解き方があります。

テレビでは、情報が精査され、選択されて発信されるからこそ間違いは少ないですが、一元的で多様性がなくなることで、情報の伝達スピードや生存率が低くなり、弱くなります。(という僕の考察もvulnerableです)

vulnerability(無防備さ)は弱さではない

周りから指摘されそうな(未検証である意味いい加減=「vulnerable」)な情報を恐れず勇気をもって発信することで、(デマやノイズも増えますが)救われた人もいたのだと思います。恐れず発信する勇気だけでなく、そうした情報を寛容にそれぞれが選択する力をもって、許容できるようになれば、情報の「弱さ」は「強さ」に変わることをあのとき私たちは理解しました。それが、自分にとって初めて「vulnerability」という意味に触れた瞬間でした。

誰だって完全な情報や真実をもっているわけではないと思います。

「vulnerability」(無防備さ、弱さ、不完全さ、脆弱さ)は弱さではない。とスピーチにもありましたが、たしかに、逆の意味で完全なる強さは、どこか弱さを帯びている気がします。

僕がこうして、思っていることをさらけ出して書いていることも、ある意味での「無防備さ」であり、「恥」であるかもしれません。その意味でブログを書く行為もまた、本当の意味でもさらけ出す勇気と強さを得るための試行錯誤の場と言えます。

「恥」と「罪悪感」は違う

恥で理解すべきなのは罪悪感との違いです。
恥はその人自身に 罪悪感は行為に焦点があります。
恥は「私が悪い」
罪悪感は「私は悪いことをした」
皆さんが私に何か害があることをしたとして、
罪悪感は「ごめんなさい 私の間違いです」ということで、
恥は「ごめんなさい 私みたいな人間は間違です」ということです。

よく外国の人を交えてワークショップをすると、「日本人は議論ができなて困る」と指摘されます。それは、何か批判的意見を言うと日本人はすぐ「人格を否定された」と勘違いしてしまい、感情的になるか、言葉をなくしてしまうから。ということなのですが、まさにこの「恥」と「罪」の指摘そのものです。

菊と刀」ではないですが、たしかに、人に指摘されると、日本人は「恥」と感じてしまいがちです。

指摘する側も、不思議と人格に触れてしまいがちですが、感情的や攻撃的ではないアサーティブなコミュニケーションの方法を私たちはもっと学ばないといけないのでしょうね。学校教育などでも、こうしたコミュニケーショントレーニングの授業が必要です。

共感は恥への解毒剤

もし、支え合う方法を見つけようとするなら、共感を理解し、
どう共感を示すか知らなければなりません。
共感は恥への解毒剤だからです。(中略)
苦しんでいる時に最も強力な言葉は 「私も そう」という言葉です。

弱さをしなやかな強さに変えるには、お互いが尊重しあう社会を作ること。

他者理解のためには、まず自分の恥と向き合い、相手の恥を知ること。そしてお互いのそうした感覚を認めあいながらも、お互いを許容し共感することができるようになると、もっと身の丈でオープンな関係性が作れるような社会になる気がします。

恥の文化を考えるよいきっかけになるスピーチでした。