Little miss sunshineの映画を観て思い直したことがあったのですが、家族が一緒に過ごす時間の大切さというか、幸せそうに暮らす事が大切なのではなく、多少面倒でもとにかく一緒に暮らす事の大切さがあった気がします。
一緒に過ごすのはやはり面倒なんです。いつからか僕らはその面倒さを生活から排除しはじめていて、核家族化どころか弧家族化していたというか、面倒で無駄と思える時間や関係を避けていたのだと思います。
THE SHAREでシェア暮らしをしていて思う事は、この面倒や無駄が多いこと。こう言うと一緒に暮らすみんなに誤解されるかもだけど、リビングで過ごしていると、楽しくもあり、でも自分の時間がすごく足りなくなるというか、雑談や立ち話しで3−4時間があっという間に経っていることがほぼ日常的にあります。
共同生活なので、面倒なこともありますが、でも、大家族的なので、おおざっぱな感じもあって、救われる部分も多くあります。
この映画も、おじいちゃんや、ゲイのインテリおじさんなど、役者が多くていいんですね。昔の大家族もこういう気のまぎれ方もあったのかな。
一人一人がその多様性に救われているシーンも沢山あって、まさにシェアの暮らしに近いなと思いました。
このオーガニックな適当さや無駄な時間、大家族感や多様性がすごく大切なことも日々実感しています。
働き方も暮らし方も、どこかで効率性を重視してしまい、打ち合わせやアポもそうですが、夜カフェも、花見やパーティですらスケジュールの一部。
子供のころの様に、「○○君、あーそーぼー」ってピンポン押して、数分経って出てこなかったら、道草しながら来た道を帰る。ってそういう、遊び方や時間の余裕がないんですね。
THE SHAREのリビングはそんな感じで、特に事前にアポなんてなくて、そこに誰もいなかったら、適当にするし、いても一人で過ごしたそうだったら声をかけずに、何か見つける。
まさに、大人のまま小学生になった気分。会社が学校なら、ここは放課後。あの頃を思い返す事で、大切ななにかを取り戻そうとしている気がします。
昨日も嵐のような天候も手伝ってか、突然映画を観たり、ダンスの練習しているところに入っていっておしえてもらったりと、へっぴり腰で踊りながら、一瞬「何しているんだろう、自分」と我に返りながらも、そんな突発的で予定の無い無駄な過ごし方から、長い間忘れていたワクワクした感覚や説明のいらいない関係というか「家族」を感じるんですね。
アポがなくても、出入り自由な関係って、そんな当たり前の事に日々に感動している自分もつくづくどうかなと思うほど。
ときに、この映画のように、不安を満載して一緒に旅をしたり、面倒な何かに挑戦したりすることで、新しいつながりや絆を見つられるんだろうなぁ。そういう楽しみも取っておきたい気がします。
アポなしで訪ねていく無駄な時間を楽しむ勇気。いや、無駄なんてないよね。きっと。
毎日が発見の連続です。