Social Film Collective

Social Film Collectiveに行ってきました。

環境問題や社会問題をジャーナリスティックに、かつアーティスティクに扱う“ソーシャルフィルム”。
世界中の映像作品を鑑賞するとともに、ソーシャルフィルムについてのワークショップを行ないます。

正直言うと、いく前は免許更新の時に観せられる「交通事故の恐ろしさ」系な映像の鑑賞会だったらどうしようと構えていました。後ろの席に座ろうと思ったのですが、空いてなくて、結局まえのほうに座ったら、逆に面白くて、刺激的な内容にかぶりつきで参加してしまいました。

ソーシャルフィルム・メディアとは?

「ソーシャルフィルムとは?」というテーマから話がはじまったのですが、結局どんな企業であれ、個人であれ社会と関わっている以上そこで表現されるものは、「ソーシャル」なものだ。という定義。

そこはとても共感で、最初のその出だしに会の方向性が見えた気がして非常に気が楽になりました。

「ソーシャル」という言葉がつくと、社会問題を訴える(映像表現)的なイメージもあるのですが、僕のようないわゆるIT系な人からみたら、「ソーシャル」や「ソーシャルメディア」という言葉は「社会問題」というよりは、「ソーシャル」「コミュニティ」という「人とのつながり」をいかにデザインするか?その仕組みやあり方について考える言葉を連想します。

最近だとツイッターもそうですし、ミクシーやブログだってそうですね。つまり、誰かに何かを伝えたいということは、「つながる」一つの方法論という捉え方です。

その意味で、人前で表現することはすべて「ソーシャル」というのにはざっくり納得。(ちなみに、人前で表現する上で気になるのは「社会」よりも「世間」なのですが、その意味でのソーシャルの定義が「世間」な人と「社会」の人かによっては、意識がかわってきそうですね。)

「ソーシャルフィルム」ってなに?というところで、パネルで解説いただいたYoukiさんのメッセージがとてもわかりやすくそのあたり、とても勉強になったので、メモ残します。

18世紀 リュミエール兄弟の最初のフィルム

記憶がただしければ、キネマトグラフを使ったリミュエール兄弟のフィルムを紹介していたと思うのですが、映画の父とも言われる、映像を撮影し上映するというリュミール兄弟が生み出したスタイルがつくられた時点からソーシャルフィルムははじまっている。という解説。

今でこそ、誰もがデジカメやパソコンで映像表現をできる時代ですが、100年以上も前に映像を撮影して表現する時代が到来していたにもかかわわらず、多くの人が「映像で表現する」ことを「創りだす側」としてではなく「観る側」としてしか考えてこなかった事実。

そこにメディアの力やリテラシーをあえて一般化したくない、なにがしの意思が働いたのかどうか、リミュエールの映像を観ながらあらためて思いをはせてました。

いま、この時代の記録フィルム的な映像というのか、映像に意味を見いだす前の作品を見直すと、ネット黎明期や、youtubeで発信するワクワク感というか、個人がはじめて映像やメディアの力に触れた瞬間の感覚に近い気がして感じるものがあります。

いよいよ、(ようやく?)真打登場です!:時計仕掛けの「昭和館」:So-net blog.

プロパガンダ映像とレニ・リーフェンシュタール

ドイツナチス時代にゲッペルスの元、結果プロパガンダ映画を世に送り出してしまった、レニ・リーフェンシュタールのオリンピア。
ゲッペルスの視点ではななく、レニという人物像とその芸術性の話題から切り出したのはとても興味深かった。映像芸術の影響力を物語りつつも、この会後半に出てくる「表現するコスト」や、インデペンデントのメリットデメリットなど、国策としての大きな予算の中にうまれた表現の可能性とその葛藤あたり、いい投げかけでした。

ナチスの国家事業的で大規模な映像制作において、その時代の最先端の技術と才能が次なる時代の方法論を生み出す可能性もある反面、今の時代、北京オリンピックのオープニングCGで、奇しくも時代を逆行するようなリアリティを表現してしまったように、お金をかけることで表現のブレイクスルーが起きる時代ではないのかもしれませんね。

コストをかけてリアリティあるCGを生み出すことが先端ではなく、むしろ仮想世界マシニマのように、コストがゼロに近い世界で世界中のクリエイターがコラボレーティブにうみだしている表現やそのスタイルのほうに次なる可能性を感じる時代な気もします。

その流れにも通じることだと思いますが、個人メディアや市民メディアのような文法からも次代の表現手法が生まれたりしてくる面白さがあるのでしょうね。youtubeなどもそうですね。

カルチャー・ジャミング

このあと、パネルのKiichiさんのカルチャージャミングに関する話題。その一つの映像として、G8MediaNetworkTV その他、関連サイトなど映像交えつつ、サイト紹介。

その他いろいろな作品やサイトを紹介(まだまだたくさんあったのですが、メモしきれませんでした。思い出して後で追記します。)

松林要樹さんドキュメンタリーフィルム

松林要樹さんの「花と兵隊」というドキュメンタリーフィルムのトレイラーと三畳一間で映像を作ったという制作秘話。(このあたり、「ぼくと「未帰還兵」との2年8ヶ月 「花と兵隊」制作ノート (単行本)」をぜひ、買ってください!と、切実にユーモア交えながら、訴えていたのが印象的でした。

作品を作り続けることと、その費用の捻出の仕方などとても身の丈に語っていたあたり、とても心に残りました。まさに、そうした現実といかに向き合うのか?「クリエイターとしての持続可能性」って、個人的にも興味のあるテーマなので、じっくりアイデアを対話してみたかったです。

また戦争もののドキュメンタリー映画の場合は、若者がほとんど見に来ない。どうすれば届くのか?という投げかけ。若者が戦争ドキュメンタリーを作ること。そして、松林さんの「戦場は知らないけど、戦争は知っている」という言葉も印象的でした。

会場に、チベットチベットを手がけた監督さんもいて、インデペンデントで作品を興行して行く上での問題点や方法論についてコメント。どちらの作品も観たことないのですが、ドキュメンタリーフィルムのポピュラリティやより伝えたい人に届けるための方法についてなど、会の後半にディスカッションされていました。(自主上映におけるコストや権利の問題。はたまた、そうした上映会を受け入れてくれる場所の問題など、すべて知らない世界の話でとても刺激的でした)

今後もこうした映像を介したワークショップなど積極的な場作りをしていきましょう。という締めで終わりましたが、まさに産声をあげ始めた最初の会に立ち会えたこと、とてもよかったと思います。主催の丹羽さんも会場ではファシリテーターに徹していましたが、彼女自身の話も面白そう。

映像表現というのは、IT世界においても、これからのキーになると思います。それこそ、誰もが映像を介して表現をする時代がこれから到来してくのだと思いますが、まさにその前夜のような機運。

そして、映像で表現することの意味とは?

一部の人だけではなく、あらゆる人たちが向き合うだろう問題をいま、こうした濃い世界でかたり合えることって非常に刺激です。僕のサロンでもテーマにぜひとりあげて対話してみたい。強くそう思った夜でした。

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