帰洛して仏を彫る

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今回は法事にあわせて、株式会社eエージェンシーの曽利さんのコーディネートのもと、講演と京都散策を楽しませていただきました。

「いつかは、自分の故郷で出来ることを考えたい」と、同郷の曽利さんに相談したところ、ならば!と一肌ぬいでいただき、その上舞台まで用意いただき本当によいご縁をたくさんいただきました。

講演の翌日、京都を案内いただきながら、ご紹介いただいたのが仏師の前田さん。

仏様を彫る場所にたちあわせていただいたばかりでなく、インドのお寺におさめる本物の仏像にノミをいれさせていただき、本当に感動しました。

自分が削ったケヤキの木片をいただいたのですが最高級のケヤキらしく、わずかな木片から漂う香りがすばらしく、その匂いだけでなにかに守られているような幸せな気分になれます。

前田さんが仏師を志した経緯や仏を彫るということ、そして、仏を通じて出会う縁や人生観を優しい語り口にお話いただいたのですが、その全てが大きく魂に響きました。

一本の木にノミを打ち、削りつづけることで、魂がかたどられていく。言葉にはならない圧倒的なリアリティ。

削るというのは、引き算であって、そして過去に戻すことのできない行為。一打ちごとに「今」という宇宙に通じていく。

ある意味、「創造」とは付け足していくのではなく、木を削りあげていくように、後戻りできない「今」に入魂すること。

こんな素人に大事な仏様を抱えさせていただき、そして躊躇することなく、「ノミを打ってください」と手渡しされたノミ。

いつかブッダガヤに納められるだろう本物の仏さまを削れる喜びと許されない失敗。

実際に、ノミを持たせていただき、大切な仏様を削る行為を前にしたとき、気が迷い、手が汗ばんでくるのがわかる。

それでも、意を決してノミを打つことでしか得られないものが目の前に横たわる。

「許される」とはこういうことか。

ノミを打つ。

叩き始めると、ケヤキの木片が足元に飛んでいく。打つことに集中していると、そこに未来も過去もなくなり、向かい合う自分との宇宙がひろがりはじめる。

「ノミを打っているときは、本当に幸せな気分で不安も心配事もなくなります」そう言っていた前田仏師の気持ちが少し理解できた気がした。
いつまでも一心不乱に削っていたくなる。

それでも、失敗や恐怖が時折、過去や未来から迎えにくる。

これ以上は打てない。

限界や未熟さとむきあうことも、削る行為に含まれるにかもしれない。

尽きることのない、クリエイティブな修練。でも、目の前のことに集中することで、未来への不安や過去への囚われる気持ちから解放されるくらいの境地には至ってみたい。

持続可能なクリエイティブ」という個人的な探求テーマへの道に通じる、とても素晴らしいヒントをいただいた体験でした。

いつか大切な人をつれて、また仏師にあいに行きたい。心からそう思えた至福の時間でした。