内田樹さんのこの文章。大学のホームページで連載されていたので、退任されて以降いま閉鎖されていますが、どこかの書籍に収録されているのかな?とても好きで、印象に残ってます。
だから本来、高等教育のキャンパスには「誰にも邪魔されず、ぼおっと無為な時間を過ごすことができるための空間」が人数分用意されていなければならない。
ぼくはそう思っています。
たぶん、ケンブリッジとかオックスフォードとかハーヴァードとかそういう大学はそういうふうになっているはずです(パリ大学は違います。フランスの大学には建物だけしかありません。でもその代わりに、校舎を一歩出ると、街には「ぼおっと」用のスペースがほとんど無限にあります。だから、パリは「知性の都」と呼ばれるゆえんなんです)。
教育とは何か、学問とは何かということがわかっていれば、必ずそうなるはずなんです。
でも、残念ながら、そのような空間的「無駄」が大学教育には死活的に重要だと考えている大学人は現代日本にはほとんどいません。
内田樹 入試部長のひとり言 から2009年6月17日に引用(現在閉鎖)
効率化の弊害と言ってしまえばそれまでですが、どんな学びも、その後一人の時間で「腹落ち」させて熟成・発酵させることが大切なんですよね。
そのためには、内田樹さんがいうように、一人になれる場所が必要です。
ちょっとした凹みや隙間なんですね。先日神戸のKIITO(約90年ほど前に建てられた生糸検査場)に行ったときに、まさに廊下の角度や大きな石柱が色々な死角を生み出していて、とても落ち着きました。
子どもの頃なんかも、材木屋の木材の裏や、土管の中など、こうした隙間を見つけて基地をつくったものです。これって原始的な帰巣本能みたいなものかな。
旅に出る事も同じですね。きちんと考えを発酵させないと、消化不良のまずいものになってしまう。旅から帰ってくると、身体もそうだけど、頭もすっきりするのは、消化不良の考えがきちんと整理されるんでしょうね。
この「ブログを書く」という行為や時間も、似ている気がします。
この話は、教育や建築、都市設計の話だけにとどまらず、人間関係や時間の使い方など、「無駄」を省きすぎてしまった現代のあり方に示唆深い話でした。
よい考えというのは、どんどん思考がめぐるものですね。