映画「ドライブ・マイ・カー」

村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した濱口竜介監督・脚本により映画化。舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。

引用元:ドライブ・マイ・カー : 作品情報 – 映画.com

3時間を感じさせない、良質な展開。

妻の秘密を知りながら、常に冷静。感情の起伏を抑えるように生きる主人公を演じる西島秀俊。

どうして、そんなに冷静でいられるのだろうか?

その謎を解くように、ゆっくりと丁寧に紡ぐように明かされていく過去。

物語の鍵を握る若手俳優役の岡田将生の中盤の長台詞が本当に素晴らしく、映画のストーリーをぎゅっと引き締めてそれぞれの終盤にバトンをつないでゆきます。

登場人物の言葉の使い方や劇中劇の伏線や展開。村上春樹の作品性を損なわず、脚本家、映像化した監督や役者陣も本当に素晴らしかったです。

「我慢や恐れと向き合うこと」

コロナや戦争。先行きの見えない経済低迷と不安感。そんななか私たちは、ずっと「我慢」が美徳と言わんばかりに、自分の感情を押し殺して生活しているのだと思います。

妻の行動を見て見ぬふりをする主人公に、疑問を抱きながらも、どこか共感できるのは、その理不尽さの置き場を見失っているような社会にこの主人公がどこか通じるからだと思います。

映画に出てくる登場人物それぞれが抱える「我慢」や「恐れ」

同時に僕らは社会生活の中で何を我慢し、何を恐れているのか?

一人で抱えていると、方向感覚を失いながら溺れ漂ってしまう時代に、誰かとの関わりや対話を通じて、自分を発見しなおす。この映画と対話することで、同じことができたような気がします。

特に劇中劇に出てくる手話の女優が無言で語りかけてくる演技には心に迫るものがあったのですが、言葉が閉ざされた人だからこそ、自分と深く向き合い、方向感覚のぶれない芯のある豊かな表現ができているのかなと思いました。

稽古中の手話の女性と中国人女性のシーンで監督である主人公が二人の演技を評価して

「今何かが起きていた。でもそれはまだ俳優の間で起きているだけだ。次の段階がある。 観客にそれを開いていく。一切損なうことなく。それを劇場で起こす。」

ドライブ・マイ・カー

素人目にみても、鳥肌が立ちそうな素晴らしい演技でも「まだ次の段階がある」

なるほど、演劇ってそういう高いレベルの世界なんだ。と、そんなところでもいちいち感動していたのですが。

同時に、これだけ深い洞察や俯瞰できる主人公でも、いや、そう言う人だからこそ、自分の深淵は怖くて覗けないものなんだなぁと。

そうした自己との葛藤や恐れをどのように乗り越えていくのか? 映画とともに、観ている自分自身すらがどこか解放され癒されていくような、そんな優しさや勇気をもらう映画でした。

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