寺山修司◎映像詩展

度肝を抜かれてみる

【形骸化】けいがいか (名)スル 誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして,形ばかりのものになってしまうこと。「民主主義の━」(大辞林)

ドックイヤーと呼ばれていた、ITの進化や情報社会への変化のスピードは、テクノロジーだけでなく、僕らの価値観や今まで当たり前と思っていたものを急速に形骸化させてしまった。

いつの間にか、大きな物語や生きるべき指針としたロールモデルもみあたらくなくなり、日本国という大芝居の端役にすら配役もされず、主人公のいない前衛舞台に立たされているのか座っているのかすらもわからない、そんな曖昧な時代を生きている。

ただ、それも面白い。
こんな時代だからこそ、その空気に耐えられず、どさくさに紛れて誰かが自分の半生を語り始めるような自作自演の即興劇をはじめないか。そんなことを期待している自分がいたりする。

そんなことを改めて思わせてくれたのが、先日、渋谷PARCOのシネクイントで観た「寺山修司」の映像詩展だった。

安全な観客席という聖域をスクリーンの向こう側から突き破って迫ってくる彼の作品は、まさにこの時代の変化に腹が決まらず右往左往している僕らの胸ぐらをつかんでゆさぶってくれる。
40年前のメッセージが今でも色褪せることのないどころか、むしろ、あらゆるものが形骸化し始めて眠たくなっているこの時代に「警鐘」をならすために作られたのではないかと思うほど。

最終日の最後の上映作品。「青少年のための映画入門」は、主人公らしき男が、僕らとのインターフェイスである大画面のスクリーン(カメラのレンズ)に向けて、ただ放尿するという3分程度の作品。
40年前の男が現代の僕らに向けてあざ笑いながら、ただ放尿している。

「何も感じないのか?」

スクリーンに流れる黄色い液体を浴びながら、それをアートだ前衛だと他人事のようにうそぶきながら、困惑していない振りをしているお利口さんな僕らをあざ笑っている。

安全でよく練られた芝居は終わり、何が起きてもおかしくないアングラな即興劇のような時代を生きている。

演者と観客の境界線を壊そうとしてきた、彼のメッセージはいまの時代にこそ響く。

いや、自分の舞台を生きようとしない人がいるかぎり、いつの時代にも必要なメッセージだ。

「観客席に縛られて、物語をただ眺めているだけの人生から立ち上がろう。」

舞台と観客、虚構と現実。もうそんな二つを区別する時代はすでに終わっている。

でも、それは、発信者と受信者、バーチャルとリアルの境界線がなくなってきたソーシャルメディア的社会にも通じるものがある。

作品がこれほどまで、心に宿るとは。

ぜひ機会があれば、大スクリーンで放尿されてみてほしい。